AAAとヒロシマのニュースを見て考えたネットの将来像

昨日のはてブとか2ちゃんのニュース系の板見てて気になったのが、広島関係のニュースが皆無なこと。AAAがどうしたとかそういう話題ばっかりで。もちろん新聞各紙は一面に相当のスペースを割いて広島の記事を載せてるわけだけど、ああ、なるほど、これが(現在の)CGMの限界なのかなー、と感じたりした。


まあJPN AAA GENERATORとかは、2ちゃん界隈の名言でいう「あふれる才能の無駄遣い」によるプロシューマーの成果物であり、それはそれで新たな時代の萌芽を感じ取ったりも出来るのだが、世の情報の質が目に見えて地盤沈下を起こしている様を見るにつけ、胸底に去来する言い知れぬ不安感はいかんともしがたい。


“大衆痴”に関しては過去にもある種の諦観を内包した形で、テレビでも出版の世界でもサブカルでもずっと言われてきたことだけど、ウェブに関しては大衆痴に対する批判とそれによって喚起される議論が表に出てこない傾向が強い。ウェブは、ウェブに対するカウンター意見を、ウェブの力によって抑えこんでしまうという機能を備えているためである。これは大変危険な構造である。


ウェブがこういう機能を持ってしまった原因は、ウェブ2.0以降ネットを支えてきた理系の技術者に過去の歴史や社会学的な観点から問題の本質を見抜いて制度設計を行う能力が欠けていたことと、そういった点をカバーしなければならない文系の人間があまりに技術と距離を置き過ぎていたこと、双方にある。


このままでは、今後ウェブの世界は徹底的に大衆化が進むだろう。近い将来、ウェブ上のほとんどの情報は、良くて写真週刊誌や民放、オバチャンの井戸端会議や立ち呑み屋でクダを巻いてるオッサンの社会・政治談議レベル、下降に歯止めが利かなければ、匿名で事実上倫理規定のないウェブは過去に例のない醜悪で低俗な情報が溢れたやさぐれた情報空間に成り下がるだろう。現状では、インターネットが既存メディアの意見を制し、ボクたち(YOU達)の意見を世に伝え届け、民主主義と平等に満ちた素晴らしい世界を誕生させるという意見は、もはや中2的なユートピア幻想に近い。
集合知は機能しても、大衆知(痴)は価値を発揮しないどころか価値を潰しているのが現実だ。


私自身、一時期ネットが本を読む時間を逆転した時期があった。しかし、現在はほとんどウェブを見なくなった。もちろんインターネットには常時つながっていてネットがないと使えないツールなどは利用している。しかし、ウェブの情報を利用するのは朝と夕方に30分ほどRSSを巡回する“作業”と、辞書や地図検索などのピンポイントな検索に限られている。数年前2ちゃんを離れ、はてなにも限界を感じている今、ウェブを去る日も近いような気がする。


もちろんこのような状況を誰かが打破して欲しいという勝手な期待は持ち続けていて、それができるのも、やはりネット上で世界を変えるシステムを生み出すことが出来る技術者しかいないと思う。ここでそれが出来なければ、ウェブは既存メディア以下の地位を脱しきれないままその可能性を埋没させることになるだろう。今後、ウェブの技術者には問題を総体でとらえ本質を見抜くリテラシーが重要な資質となる。逆に言えば、プログラマーにとっては、また5年に一度くらいのチャンスが巡ってきてるんだと思う。



もっとがんばれ。超がんばれ。
とかいわねーのか、最近。