世界がカジュアル化する理由

情報革命の進展と社会の成熟に伴い、世界はカジュアル化の方向へ向かう。仕事や学ぶこと、物事のとらえ方や考え方などから堅苦しさが取り払われ、様々な分野で人々はカジュアルに取り組むようになる。ライトでポップでカジュアルな物(者)が尊敬を集めるとともに、一方で偉い人の権威は低下する。
このことは、良いか悪いか、あるいは真面目とカジュアルどちらが良いか、といった二元的な話ではなく、良い面・悪い面を併有する現象である。
良い面としては、人々に精神的な余裕が生まれ、芸術などを中心に新たな文化の勃興と発展があるだろう。悪い面としては、まあテキトーに仕事されると困る業種(例えば司法とかこういうとこ)で弊害が出て、一時的に社会が不安定化するかもしれない。

以下、世界がカジュアル化する理由。



●新しい時代は、既存の権威を必要としていない。
「権威」という概念そのものが変質している。
例えば、新聞が言っていることは信じず、名無しさんの言うことは妄信するような人たちは確実に増加している。既存の権威である「新聞」が書いてるから、「教授」が言っているから、が通用しにくくなっている。これは、既存の権威が伝え、教えてくれることより、Google2ちゃんねる人力検索で知ることの方が役に立ったという実体験に依るところが大きい。
このことはネットの世界だけにとどまらない。
服飾の分野では権威的なメゾンのデザイナーよりも、エビちゃんのような自分たちの身近なファッションリーダーたちが示すファッションの存在感が増している。そこには服飾に文化的な価値を認める(求める)というような堅苦しさは皆無である。もちろん20世紀以前のほとんどのブランドの権威はいまだに健在である。そして時代を超えて生き残っていくブランドもあるだろう。しかし、明らかに21世紀に入ってから生まれた多くのブランドは旧来のそれとは違う権威を示すことで、人々をひきつけている。
文学の世界では、鴎外や漱石を読んだことがないと公言する若手作家がケータイで作品を書き支持を得ている。彼ら若手作家は文学に堅苦しい権威というものを認めていないし、自らの内に必要な教養は“誰か”が持ってれば良いと考え、全く新しいスタイルで書きたいように書き、そして支持を獲得している。そこには地獄で書く求道者の姿というようなイメージはない。
冒頭で述べたように、これらのことについて私は、良い悪いを断じたいわけではない。ただ、このような情報の取捨選択を行ってきた人たちが作る未来は、新たな価値観に支配されたものになるだろう、ということである。


集合知を基盤とした情報は、カジュアルな表現にならざるを得ない。
新しい権威の誕生は集合知の力に依るところが大きいが、一方で集合知によって生み出される情報はカジュアルな表現にならざるを得ないという、既存の権威と相反する性質を内包する。
集合知が機能するためには、母集団の規模がある水準(閾値)を越えねばならない。閾値を越えるためには参加のための(システム的、心理的)ハードルを下げなければならず、全体としての表現はカジュアル化する。表現のカジュアル化は権威の低下を伴うが、逆に親しみやすさを向上させる。集合知が母集団の規模の拡大を求め続ける限り、(心理的ハードルを下げようとする動きのために)表現のカジュアル化は止められない。
ウィキペディアは非常にカジュアルな百科事典と言える。特に最近は権威の低下が顕著だが、良く言えば既存の「権威」という概念でとらえられない存在になりつつあるということだろう。百科事典とは権威的なものという常識から抜け出さないと、集合知の本質を見誤ってしまう。


●ベータで投げてみる文化の浸透
ベータで投げてみる、という文化圏の住人(既存権威に対してカウンターカルチャーな人々)がイニシアチブを取る世界(すなわちウェブ世界)がものすごい勢いで台頭している。既存(現実)世界もこの影響を受け、問題をカジュアルに考えるという姿勢が社会で存在感を増している。今後は現実世界も、ゆっくりと、確実に、カジュアル化していくだろう。
もちろん、謹厳でアカデミックな雰囲気を好む人は少なからず存在するし、そういう人たちがいなくなるわけではない(私自身、非常に既存権威に弱い人間だ)。しかしまあ、そういう人たちもいつも肩肘張って問題に取り組んでいるわけではなく、匿名のブログにパンツ一丁で寝っころがってビールでも飲みたい時もあるだろう。そして、そういう人たちの参加こそ集合知には必要なのだ。と思う。


●肩の力を抜いた方がお互いにメリットがあることにみんなが気づき始めた。
現在の社会には、「これってこんなにクソマジメに書かれている必要ってあるの?」というものは実に多い。例えば嗜好品や娯楽、スポーツのマニュアルやハウツーなどがそうだ。PCのトラブル解決のために堅苦しい文章で書かれたハウツー本はほとんどの人には必要なく、「どんな質問にでもマジレスするスレ」の方が圧倒的に楽だし早かったりする。同様に、果たして英単語の暗記や計算力を高めるためにまじめにドリルに取り組む必要ってあるの? なんか他に方法あるんじゃね? という考えが主流になってもおかしくない(市場が求めればそうなっていく)。得られる結果が同じなら、(旧来の方法で)まじめに堅苦しく勉強に取り組む必要が必ずしもあるだろうか? もちろん学問に王道はないが、王道がいばらの道である必要はない(本を平易に書けとか文章じゃなくて漫画で解説しろとか言う話ではない。学校の教科書が漫画で埋め尽くされているというのには私もアレルギーがある。言いたいのは、「目的に対するあらゆる方法」について、である)。


以上。
またなんか思いついたら書く。